代表者自己紹介

仕事風景の写真やお客さまの相談に乗っている写真を挿入されるのがお勧めです

代表取締役 仲川幸男

昭和44年3月生まれ千葉県生まれの千葉県育ちです。

趣味は読書、温泉、ドライブと旅先で写真を撮ることです。

歴史物の本が好きで司馬遼太郎、吉川英治、山岡荘八、池波正太郎など読みます。

山岡荘八の「徳川家康」、池波正太郎の「剣客商売」や「鬼平犯科帳」は今でも読みます。

なぜか山梨が好きで泊りや日帰りで年間7~8回くらい行きます。

海も好きなので年2回くらい車で「房総半島1周」をします。

16歳の時にアルバイトで入ったまま居ついてしまい、いつの間にか2代目社長になっていました。先代社長とは血縁関係はありません。仕事へのこだわりが強かったのを職人気質の先代が見込んでくれたようです。先代社長は私がアルバイトの時、仕事帰りによくお寿司やうなぎを食べに連れて行ってくれました。また得意先の社員さんたちにも高校生の頃から随分と可愛がっていただいて、ここまでやってこられました。この仕事が天職と思い励んでいます。

今までの物語(継続中です。)

 

社長の自己紹介

先代社長創業の頃

創業者の森は勤めていたビル管理会社で浜松町にある貿易センタービルの初代所長をしていました。そして、「何社もビルメンテナンスの会社が入っている中でそれを束ねていた」というのをよく話していました。しかし、もともと職人気質で独立心が旺盛な森は昭和41年に当時勤めていたビル管理会社を退職して森商会を立ち上げました。 

独立してしばらくは喫茶店専門に床のメンテナンス(清掃)の仕事をしていました。職人気質だった森の仕事はいろいろなお店のマスターから気に入られていて、かなりの店舗数の仕事をさせていただいていました。

そうこうしているうちにご縁で様々な方々と知り合いまたちょうどビルが増えていく時代でした。そんな中で森の仕事ぶりは口伝で評判となり、ご紹介をいただき取引先も増えていきました。

そして、とあるご縁で現在の一番長く(45年)お取引いただいているお客様のビルの管理を任せていただいておりました。但し、その時はまだ弊社は法人ではありませんでした。正式に契約をしていただくには法人でなければならないということになり、年末のあわただしい中法人登記をいたしました。

 

二代目社長の高校時代

現代表である私仲川はバブル直前の時期に高校生のアルバイトとして入りました。当時「日刊アルバイトニュース」というのが100円で発行されていて、それを見るとビル清掃の会社は何社もあったのですが当時は千葉県の市川に住んでいたので飯田橋が一番近く通いやすそうでしたので学校帰りに電話をして、面接に行くことにしました。なぜビル清掃のアルバイトをしようとしたのかといいますと同級生でビル清掃のアルバイトをしている者がいて、話を聞くと時給がいいというのと土日の仕事なので学校にも差し支えが無いと思ったからです。

 

面接に行って

面接に行くと森がいて、高校生は最初は時給530円であること、仕事の場所は都内のあちこちで現地集合現地解散であること等々説明を受けました。時給530円なんてアルバイトニュースに載っていたのと話が違うと思いながらもとりあえずやって、ひどい会社だったらやめようと思い兎にも角にも仕事をすることになりました。時給は一年も経つ頃にはどんどん上がっていき200円くらい上がりました。そのため辞めることはありませんでした。森の話によると仕事がきついので入ってもすぐ辞める者もいて、そのために最初は安くして続くようなら仕事に応じてどんどん上げることにしたそうです。私の感想では仕事がきついと言うよりも森の指導が厳しくて(何しろ職人気質なので)、辞めてしまうように思えました。それでも残った者達は大学生や高校生のアルバイトとはいえバリバリと仕事をこなす先輩アルバイト達ばかりでした。

 

一通りの仕事を覚えるまで

私が行った一番最初の現場は都内の印刷会社でその会社の先代社長からお取引いただいていて、今はご子息が社長をされていますが未だにお取引いただいています。ちなみにこちらの先代社長はクラウンのアスリートに乗っていらっしゃって、それを見た当時の私は「かっこいいなぁ、こんな車に乗りたいなぁ」と思い3台目にして、現在はクラウンのアスリートに乗っています。時間はかかっても頑張れば夢は叶うものだなぁとつくづく思います。

その現場で「モップ洗い」を森から直接教わり、「モップとはこうやって洗うモノなのか」と感心したのを覚えています。

入った当時はモップ洗いが一番大事ということで1年ほどはほとんどモップ洗いばかりやらせられました。しかも、「ゴム手袋をすると絞り方があまくなる」ということで冬でもゴム手袋はしませんでした。そして、森の主義で汚水を吸い取るバキュームもカッパキも使わずモップだけで汚水を拭き取るので某銀行の何百㎡あるかわからないような広いフロアの清掃では一日に200~300本分かそれ以上洗って、洗い場と清掃しているフロアをモップを持って何往復もしていました。今はその銀行も建物もありませんが一日に3フロア清掃するのです。朝、8時半から入って、終わるのは20時から下手をすると21時くらいになります。本当にくたくたになりました。でも他の先輩アルバイト達から「仲川がモップを洗うと真っ白になる」と言ってもらえるようになりました。

そして、次はモップでの「拭き」です。ポリッシャーで洗浄したところを拭き上げるのです。ポリッシャーで洗った後が乾かないうちに早く、隙間を開けずに拭きます。一度では拭き取りきれないので2度拭きします。最初はモップの交換の時期がなかなかわからず拭き残しをしては拭きなおしました。仕事と言うのは一つの役割だけをやればいいのではなくいろいろな役割を入れ替わりながらこなして行きます。モップ洗いと拭きができるようになると拭きながらモップを洗い、モップを洗いながら拭かなければいけません。  仕事を覚えていくにつれてモップ洗いなどは本当に楽なものだと思いました。なぜなら、もっと大変なのはワックス塗りです。その何百㎡あるかわからないほど広いフロアを1度塗りだと仕上がりがあまり良くないので2度塗り、傷められやすいところは3度塗りするのです。モップの幅は25センチほどです。そんなモップでだだっ広い床を2度塗りするなんて本当に良くやったと思います。

しかし、ワックス塗にも習熟してくると洗浄作業をしている所に戻って洗剤を塗りながら、またワックスを塗っている所に戻って、ワックスを塗るという芸当もできるようになりました。これにはちょっとだけ自慢ですが他の先輩たちも驚いていました。なんだかんだで高校生のうちはワックス塗までしかしませんでした。といってもたったの二年ですが。そして大学生になるころにはポリッシャーを覚えました。

ポリッシャーは一見楽で簡単そうに見えますが床面をワックスを削らずに平らにムラなく汚れをちゃんと落とすように洗うというのはなかなかコツが必要で難しいです。他の人がやっているのを見るとなんでもかまわずにとにかく動かせばいいというようにやっていますがポリッシャーでの洗い方一つで仕上がりが変わって来ます。そして一度変な洗い方をしてしまうとその後2~3度きちんと洗うまで直らないのです。

 

大学生の頃(うれしかった新車購入)

大学1年の時に車が欲しくなり、この会社でのアルバイトのほかに船橋にある食品コンビナートの野菜倉庫でもアルバイトをして半分頭金を作り、足りない半分は父親に某信金からお金を借りてもらい、大学2年になる春に新車のブルーバードを買いました。当時のブルーバードはフルモデルチェンジで角ばったスタイルから丸みを帯びたスタイルになり、SSSハードトップなどすごく人気が出た世代です。ですが自分はお金がなかったので一番下のグレードを買いました。一番下のグレードでもオートマだと7万円も高かったのでマニュアルにしました。パワーウィンドウもついていませんでした。でも欲しかった車が新車で手に入り、納車は偶然なのですが自分の誕生日だったのでとても感動したのを今でも覚えています。

 

ローン返済の青春時代

その代り借金の返済は月々のアルバイトの給料からしていて、自動車保険も20歳ではとても高く、忘れもしませんがその時初年度の任意保険は年間で22万円でした。また友達とも遊びに行っていたのでいつもお金がありませんでした。財布の中にはいつも三千円くらいしか入っていませんでした。それでも楽しい思い出がいっぱいあります。信金からの借り入れは大学2年生の時からの3年間で返すことができました。大学卒業と同時に車の借金を払い終えられて、名実ともに車が自分の物になりとてもうれしかったのを覚えています。

 

うかつな就活

さて、大学4年になってからの話です。当時はみなさまご存知のようにバブルの絶頂期でした。良く言われたように「就職案内」が「段ボール箱に3つ、4つ分」本当に来ました。

しかし、世間知らずの私は「どこの会社に入っても同じこと」などと勘違いをして、ろくに就職活動もせずに先代の森に誘われるまま当社に就職してしまったのです。

森の誘いは私が20歳の頃に一度ありました。現場が終わると森とは帰りが同じ方面でしたので車で途中までよく送ってもらいました。その車中で森が「仲川、将来は今学んでいることを活かした仕事に就きたいとか考えているのか?」と。バカな私は当然何も考えていなかったので「今のところは何も考えていません」と正直に答えました。すると森が「社長やってみないか?」と言うのです。

正直私は「はぁ?」という感じでした。アルバイトのしかもまだ20歳のしかも将来のことを何も考えていない人間に「この人何言ってんだろう」というのが正直な感想でした。そういう森に対して「そんな器ではないですよ」などと分かったようなことを言ったことを覚えています。すると森は「器というものは苦労して乗り越えるうちにできてくるものだ」と言いました。そんなやり取りの中で「そういうもんかな?」と思ったのを覚えています。

なんだかんだで結局入社してしまったのは先に書いた通りです。

 

社会人になって

そして最初は現場の仕事をすべて経験することでした。と言いましても普通に現場の一員として仕事をすることでした。警備員として勤務しながら土日はこれまで通り清掃の仕事をしていました。そういえば朝から次の日の朝までの休日というのは月に二日しかありませんでした。またお盆も正月も関係なく自分の勤務日になると仕事に行っていました。今時でしたら大変な問題になっているところです。ただ警備の仕事は24時間勤務で朝勤務が終わると明け番になるのでなんとかそれでも続けられたのでしょう。

上記のように月に二日しかまともな休みが無いといいながらも明け番が週に二回あり残業や早出などがそれほど無かったので比較的時間はあったように思います。今にして思えば本当によくやっていたと思います。そんな生活が二年も続いた頃次は設備の仕事をすることになりました。他の現場でボイラーと冷房設備の修行をすることになりました。修行と書いたのはそのボイラーの取り扱い方を教えてくれることになった方が大正生まれで戦争にも行き30人ほどの部隊を率いていたという人でした。話し方や接し方はとても優しく親切できつい言い方や大声を上げるなどは全くない方でした。でも仕事では一切妥協をしない人でした。ルールをきちんと守りお客様相手でもダメなものはダメとはっきりと優しく伝ええ、仕事も少しでもちゃんとやらないと認めてくれない優しくも厳しい方のもとでの仕事だったからです。

しかし先代やこの方のように仕事に対して厳しい人たちに教わることができたのはとてもありがたく、自分にとって財産だと思います。

 

20代後半に(突然の父の死・・)

世の中「晴天の霹靂」というのは本当にあるものです。ある日夜勤明けに家に帰宅するとテーブルの上に母からの書き置きがありました。父が仕事先で倒れて、病院に運ばれたと。しばらくすると私がもう帰宅した頃だと思ったのか母から電話がありました。父は「もうだめらしい」と。どこの病院か聞いてすぐに駆けつけると父は意識が無く呼吸するための機械と心電図を計る機械が取り付けられていました。クモ膜下出血でした。レントゲンを見ると脳が出血で覆われていて医者の話では「こうなると手術はできません。現在の日本では脳死の判定はしていないので後はいつまで心臓が保つかです。体力しだいなので明日か何ヶ月後かそれはわかりません。」と。結局父は翌日に心臓が止まりました。人の死とはこんなに突然来るものなのかと・・・。その時は「何もしてやれなかった」という気持ちでいっぱいでした。思い出されたのは小さい頃に父の実家の近くの海でのことです。初めて海を見て怖かった私は父の背中に負ぶさっていました。そうすると父は私を負んぶしたまま海に入りどんどん沖の方へ泳いでいき、とても恐かったので父の背中にしがみついていたことです。あの時はとても父の背中が大きく感じました。世の中で一番頼りに思えるのが父でした。その父がこんなにあっけなく亡くなるとは思ってもみませんでした。

一家で父親が亡くなるというのはやはり大事で落ち着くまでには1~2年必要でした。3回忌も済むとどうやら一段落した気持ちになりました。

父が亡くなった年はどういうわけか身近で亡くなる人が多い年でした。寅さんこと渥美清、当社の設立時からの得意先の会長もこの年に亡くなりました。そして年が明けてしばらくしてから私に設備の仕事を教えてくださってい大正生まれで戦争にも行った方が亡くなりました。

その後は私が一人で設備のことをやることになりました。その設備はかなり旧式で冷房も暖房もすべて手動で操作しなければなりませんでした。冷暖房をつける時も消す時も総務部長からの指示で行います。総務部長は役目柄経費の使い方はシビアに考えなければなりません。冷暖房をつけるときはできるだけ遅く、止めるときはできるだけ早くというようになっていました。暑かろうと寒かろうと消す時には消すという指示のままにやらなければならず社員の人たちからは突き刺さるような視線をうけていました。

警備をやったり、設備をやったりしながらもやはり本職は清掃の仕事でした。

先代の知り合いからの紹介でアミューズメント施設を建設する会社と取引をさせていただくことになり、まずはカラオケボックスの清掃をさせていただくことになりました。お店の閉店後深夜2時から朝10時の開店前までに終えなければならない仕事です。

現場までは自宅から1時間ちょっとかかります。そのため深夜の1時半頃に現場に着くために家を12時には出ます。前日も当然仕事がありますので夜中の仕事のために早く帰ったとしても寝るのは午後9時ころです。「寝たかなぁと思ったころには起きなければいけません」。なかなか大変でした。そして深夜2時から作業が始まります。通路とホールだけなら良いのですが各部屋も作業するとなるとなかなか大変です。まず重いソファや重いテーブルを出して、それからカーペットなり、タイルなりを洗浄します。広い範囲を一度に洗ってしまえるのなら早いのですが荷物も多く細かい区画に分かれている場所を洗浄するのはなかなか時間がかかります。ようやく洗浄作業が終わって、ソファやテーブルを戻すころにはくたくたです。そうして、開店に間に合うと本当にほっとしました。

その他にその建設会社の施主さんの会社では年に一件ペースで新規の施設を開店されていました。

新規出店の清掃もさせていただきました。工事が完了するある程度前から現場に入り、工事が完了したところから埃を取ったり、コーキングのはみ出たのや余分なところに付いたのをとったり、埃まみれのガラスや鏡を清掃したりです。時には幅46メートル、長さ100メートルの新規店舗の工事完了の清掃もやらせていただきました。それだけ大きい建物のカーペットにひたすら掃除機をかけるのですが暑いさなかにエアコンも工事中で設置されていないときにシャッターも開けられずにいるので最後の方はフラフラになりました。それでも大きい現場をきちんときれいにしてオープンするのを見るととても達成感がありました。

 

世代交代・・

2011年3月あの震災の二日前です。現場からの移動中に専務から連絡がありました。仙台が亡くなったと・・・

そして二日後の11日、あの震災の日がお通夜でした。

あの日わたしは現場を一通り見まわった後、お通夜のために会場のそばのコインパーキングに車を止めていました。その時車がすごい勢いで揺れだしたのです。幹線道路沿いで大型車でも通ったのかとのんきなことを思っていると目の前の電線が縄跳びのように揺れて、同じく目の前の信用金庫から人が雪崩を打って出てくるのです。ようやく「地震」だと気づきました。しばらくすると揺れも収まり信用金庫から逃げ出してきた人たちもまた建物の中に入っていきました。ところがまたすぐに揺れだしまた建物から逃げ出してくる人たち・・・そんなことを数回繰り返していたのでカーナビのテレビでニュースを見ていると「高さ8メートルの津波予報」が出ていました。「いやいや8メートルの津波なんて来るわけないよ」と思っていたらその後さらに高い津波予報が出て、しばらくしてだったか数時間してだったか記憶が定かではありませんがテレビで津波が東北地方の土地をすごい勢いで洗い流していく映像が流れていました。とても現実とは思えませんでした。

携帯電話がつながらなくなり、メールも送ってから1~2時間しないと届かないような状況になっていました。会場の固定電話をお借りして、各現場に連絡を取ったところお客様も現場の従業員たちも無事でした。

自宅に電話したところ母がでませんでした。しかし、姉からメールがあり姉のところで無事でいることが確認されてほっとしました。

お坊さんは普通なら車で30から40分で来られるところを大渋滞のため5時間かけてきてくださいました。予定時刻から5時間遅れでお通夜をとり行いました。ほんの数キロ離れたところの知人の方々もお越し下さるのに数時間かかり、帰りもまた数時間かけて帰宅されていました。

そんな状況ですのでほとんどの方は来られず、わたしもとても家に帰れません。でも長年お世話になった先代のお通夜ですのでご親族の方々とも一晩ご一緒させていただくことにしました。

翌日告別式がすんでから都心方面は道路もすいていたのでとりあえず現場の状況を確認に行きました。お客様の建物も棚が倒れたり、壁に軽いヒビが入ったりはしていましたがガラスが割れたり、けがをされた方もいらっしゃらなかったのは大変な中でも幸いでした。ただやはり中には40キロほどの道のりを帰宅するために歩いて帰られた方もいらっしゃったとのことでした。

そんなこんなの混乱がありながらも当社では「社長」が不在となったため次の社長を決めなければなりませんでした。先代が以前から言っていたようにわたしが引き継ぐことになりました。

 

何も知らない社長・・・

社長として後を継ぎましたがお恥ずかしい話ですが正直社長としての仕事というのは何なのか明確にわかりませんでした。先代が時々「経営者は・・」とか「社長は・・・」とか言ってはいましたが特に一緒に連れ立って「社長の仕事」というのを明確に見せてもらってたわけではないので。

それでも何とかやっていられたのは現場でずっと仕事をしていて、社歴は社内で一番長くお客様方ともずっと接していたからです。でも会社の仕組みを整えて永続的に発展させていくなどという考えではなく「経営」とは程遠いレベルの意識と考えしかありませんでした。それは自分でもわかっていたのでいろいろな本を読んだり、セミナーに行ってみたり、「経営」を教えてくれる人をずっと数年間探していました。そうこうしている時に日経新聞を読んでいると本の広告が出ていました。「一日一つ実行するだけ」だったか、よく覚えていませんがとりあえずその本を買って読むと「これは!これなら自分にもできるかも!」と思えるものがありました。そして、その本の間に入っていた著書の会社の社長の「無料講演」なるものに行ってみました。そこで講演を聞くとまったく経営者としてわたしの知らないことばかりでした。いかに自分が無知だったのか・・・

 
 
 

続く(制作中)・・・

 

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