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代表者自己紹介

取締役社長 仲川幸男

清掃・警備・空調設備の管理を通して

安心・安全・快適な環境作りを仕事にしています。

仕事歴は40年になります。

資格

乙種第4類危険物取扱者

2級ボイラー技士

日商簿記2級

宅地建物取引主任者

警備員指導教育責任者(施設警備)

建築物環境衛生管理技術者(通称ビル管 国家資格で難易度はそこそこ高めです)

 

昭和44年3月生まれ千葉県生まれの千葉県育ちです。

趣味は読書、温泉、ドライブと旅先で写真を撮ることです。

歴史物の本が好きで司馬遼太郎、吉川英治、山岡荘八、池波正太郎など読みました。

池波正太郎の「剣客商売」や「鬼平犯科帳」は今でも読みます。

なぜか山梨が好きで泊りや日帰りで年間5~7回くらい行きます。富士五湖の周りも好きですが甲府盆地の景色も好きです。河口湖冬花火、桃の花の季節、桃の生る季節、河口湖湖上祭、ぶどうの季節は毎年行きます。

海も好きなので年2回くらい車で「房総半島1周」をします。外房から内房へ海沿いをぐるっと回る道が好きです。

最近はキャンプに興味を持ち、キャンプ道具がだんだん増えています。まだテントは買ってません。

16歳の時にアルバイトで入ったまま居ついてしまい、いつの間にか2代目社長になっていました。先代社長とは血縁関係はありません。仕事へのこだわりが強かったのを職人気質の先代が見込んでくれたようです。

先代社長は私がアルバイトの時、仕事帰りによくお寿司やうなぎを食べに連れて行ってくれました。また得意先の社員さんたちにも高校生の頃から随分と可愛がっていただいて、ここまでやってこられました。この仕事が天職と思い励んでいます。

子供の頃は市川住んでました。父は競馬が好きでたまに一緒に自転車で中山競馬場に行きました。私はギャンブルにはまったく興味がありません。

子供の頃、近所の違う学校の子や一度も同じクラスになったことがない子とも学年問わずよく遊んでました。ブロック塀の上を歩いたり、銀玉鉄砲の撃ち合いをよくやっていました。

好きな色は緑、青、黄色です。

iPhoneやiPadは便利なので使ってますがどっちかというとマイクロソフト派です。

ビルメンテナンスの仕事をしてますが街中より田舎が好きです。自宅の周りはたぬきが出ます。

休日は緑の多いところでのんびりするのが好きです。

友達には「協調性はあるけどマイペース」と言われます。

大工をやっていた職人気質の叔父は私をとてもかわいがってくれてました。

先代の社長も職人気質でわたしのことを気に入ってくれてました。

父方の祖父も職人ではないのですが気難しい人でわたしをかわいがってくれてました。

そういう職人気質や気難しい人に好かれるようです。母には「あんたも気難しい」と言われます。

中学の時は天文同好会の会長でした。そのとき使っていたカメラは「オリンパスNEW OM-2」です。ニコンに憧れていたけどお金がなくて買えませんでした。

今はちょっといいカメラを持っています。ニコンのD800です。当時レンズとセットで40万円くらいしました。

20代の頃はバイクに乗ってました。

最初はホンダCBX、次はヤマハFZR400RRでした。FZRは速くて怖かったです。

お酒は弱いです。ビール350㎖1本で幸せになれます。サッポロ黒ラベルが好きです。最近はアサヒのドライクリスタルをよく飲みます。

普段はノンアルコールビールやウメッシュを飲んでます。

たばこは吸いません。

好きな映画「男はつらいよ」(全シリーズAmazonで見ました)、ミッションインポッシブルシリーズ、 「ストリートオブファイヤー(のラストシーン)」

朝は4時過ぎに起きて、朝6時から仕事をしています。夜は9時半から10時の間に寝ます。朝が勝負の仕事なので。

これまでの物語

森商会のはじまり

かつて、浜松町の高層ビル群がまだ今ほど整っていない頃、一人の男がいました。彼の名は森。
当時、森はビル管理会社に勤め、名高い「貿易センタービル」の初代所長として腕を振るっていました。
複数のビルメンテナンス会社が入り乱れる中で、それらを束ねるリーダー的存在だった彼は、よくこう語っていました。
「いろんな会社があっても、まとめあげるのは結局、人の信頼なんだ。」

けれど、森には、心の奥底にもうひとつの想いがありました。
"いつか、自分の力でやってみたい――。"

その想いを胸に、昭和41年、森は長年勤めた会社を静かに退職し、ついに自らの道を歩み始めます。
こうして「森商会」は産声を上げました。

独立したばかりの頃、森が選んだのは、喫茶店専門の床メンテナンスの仕事でした。
店の床を黙々と磨き上げるその姿は、まさに職人そのもの。
いつしか、数多くの喫茶店のマスターたちに「森さんに頼めば間違いない」と信頼され、森の仕事は次第に広がっていきました。

時は、高度経済成長のまっただ中。
ビルが次々と建ち並び、都市が勢いよく発展していく時代。
森の丁寧で誠実な仕事ぶりは、自然と人づてに評判となり、新たなご縁を呼び込んでいきました。
「森さんにお願いしたい」と、紹介に次ぐ紹介。気がつけば、取引先は着実に増えていったのです。

そして、ある日訪れたご縁が、森商会にとって大きな転機となります。
それが、現在まで52年にわたりお取引いただいている、大切なお客様との出会いでした。

ただ、その時の森商会はまだ法人ではなく、個人事業のかたちでした。
「正式に契約するには、法人じゃないといけないんです。」
そう告げられた森は、年末の慌ただしい時期にもかかわらず、迷うことなく法人登記を決意します。
「よし、やろう。」

こうして森商会は正式に法人となり、時代の波に乗りながら、さらに歩みを進めていくことになるのです。

 

この物語は、ひとりの職人が誠実に積み重ねた日々と、ご縁を大切にした結果、今につながっている――そんな森商会の原点です。

日刊アルバイトニュースと小さな決意

ぼくがこの仕事と出会ったのは、高校生のころだった。
時代はバブル直前。
放課後、ぼくは駅の売店で100円の「日刊アルバイトニュース」を手に取った。

ページをめくると、いくつものビル清掃の求人が並んでいる。
どの会社も似たような条件だったけれど、当時、市川に住んでいたぼくにとって、飯田橋にあるこの会社が、一番通いやすそうだった。

きっかけは、同級生だった。
彼はすでにビル清掃のアルバイトをしていて、ふとした休み時間に話してくれた。

「土日だけの仕事だし、時給も悪くないよ」
「学校の勉強とも両立できるしさ」

そんな言葉に、ぼくは少しだけ心が動いた。
「やってみようかな」
その軽い気持ちが、やがて人生を大きく動かすことになるなんて、そのときはまだ知らなかった。

放課後、ぼくは電話をかけた。
少し緊張しながら、面接の日程を決める。
学校帰りに、そのまま面接へ向かった。

「ビル清掃」という仕事に、どんな世界が待っているのか、ぼくは何も知らなかった。

 

けれど、そこから、ぼくとこの会社の長い長い物語が、静かに始まった――。

530円のスタートライン 〜森の厳しさと成長の記憶〜

ぼくが面接に足を運んだ日のことは、今でもよく覚えている。
そこで出会ったのが、森だった。

「最初は時給530円だよ」
森は淡々と説明した。
「仕事は都内のいろんな現場に行く。現地集合で現地解散だ」

その言葉を聞いたとき、ぼくは正直、驚いた。
アルバイトニュースに載っていた時給と全然違うじゃないか。
けれど、ぼくはとりあえずやってみようと思った。
もしひどい会社なら、やめればいい。そう思っていた。

それからの1年、ぼくの時給は少しずつ上がっていった。
200円ほども上がったその変化は、ぼくにとって何よりの励みだった。
辞める理由はもう見当たらなかった。

森によれば、最初は安い時給に設定しているのは、仕事がきつくてすぐ辞めてしまう人が多いからだという。
続けられそうな者には、仕事に応じてどんどん時給を上げるという仕組みだった。

ぼくの感覚では、仕事がきついというより、森の指導がとにかく厳しかった。
職人気質の森の目は、一人ひとりを見逃さず、厳しい言葉で叱咤した。
だからこそ、多くの人が途中で辞めていったのだろう。

それでも、残ったぼくたちは、大学生や高校生のアルバイトとは思えないほど、バリバリと仕事をこなす先輩たちばかりだった。

そんな彼らに囲まれ、ぼくは少しずつ成長していった。

モップとクラウン ~ぼくのはじまりの物語~

ぼくが最初に足を踏み入れた現場は、東京のとある印刷会社だった。
その会社の社長は、クラウンのアスリートに乗っていた。
ピカピカに輝くその車を見て、当時のぼくは胸を高鳴らせた。

「かっこいいなぁ……いつか、ぼくもあんな車に乗りたい」

小さな夢だった。けれど、その夢はいつしか心の奥で、静かに灯り続けた。

***

初めて教わったのは、「モップの洗い方」だった。
森が、ぼくに直接手ほどきをしてくれた。

「モップはこうやって洗うんだ」

くるくると動く森の手元を、ぼくは必死に見つめた。
何気なく扱っていたモップに、こんなに奥深い世界があったなんて――
ぼくは衝撃を受けた。

それから、毎回毎回、ぼくはモップを洗い続けた。
冬の寒い日でも、ゴム手袋は使わない。
「ゴム手袋をすると、絞りが甘くなるからな」
森の言葉が、耳に残っていた。

手はかじかみ、ひび割れた。
けれど、ぼくはモップを握り続けた。

「仲川が洗ったモップは真っ白だな!」

いつしか、先輩たちにそう言われるようになった。
それが、何よりもうれしかった。

***

モップを洗うだけではない。
ポリッシャーで洗浄したあとの「拭き」も、重要な仕事だった。

ポリッシャーが通ったあとの床は、乾く前にすばやく拭き上げなければならない。
少しでも遅れれば、汚れが残り、床はまだらになる。

「拭き残しだ!」
先輩の声に、ぼくは何度も立ち止まり、拭きなおした。

仕事は一つだけをやればいいわけじゃない。
洗いながら拭き、拭きながら洗う――そんな同時進行の力が求められた。

そして、モップの扱いにも慣れてきたころ、次の試練がやってきた。

ワックス塗り――。

広い広い銀行のフロアを、たった25センチのモップで、二度、三度と塗り重ねる。
その距離は、数えきれないほどの往復。

「よくやったよ、ほんとに」

そう言われた日、ぼくは汗でぐっしょりと濡れたシャツの袖をぎゅっと握った。

***

やがて、ぼくは一つの技を身につけた。
洗剤を塗りながら、ワックスを塗る場所に戻り、また洗い場へ走る――。

「お前、そんなことまでできるのか!」
驚く先輩たちを見て、ぼくはちょっとだけ、胸を張った。

高校時代はワックス塗りまでだったが、大学生になるころ、ぼくはポリッシャーを覚えた。

ポリッシャーは、大きくて力強い機械だ。
動かすだけなら簡単だった。けれど、
「動かす」のと「きちんと洗う」のは、まるで別物だった。

床を傷つけず、ムラなく、ワックスを落とさずに汚れだけを落とす――
そのためには、細やかな感覚と繊細な動きが必要だった。

「私はポリッシャーが動かせます」

そんな言葉は、何の自慢にもならない。

仕上がりの美しさこそが、ぼくたちの誇りだった。

一度、雑な洗い方をしてしまえば、その後、何度洗っても跡は消えない。
だから、ぼくは一度一度、心を込めて洗った。

***

あの日、印刷会社で見たクラウンのアスリート。
「いつか」と思ったあの夢は、遠いようで、実はすぐそばにあった。

時間はかかった。
だけど、ぼくは夢を手に入れた。これはもう少し先の話だけど。

そして今でも、ぼくはモップを握り続けている。
あのころと変わらず、一つひとつ、ていねいに。

なぜなら、モップがぼくに教えてくれた。
「がんばることをやめなければ、夢はきっとかなう」と。

夢を乗せたブルーバード 〜努力が叶えた誕生日の贈り物〜

大学1年の頃、ぼくの心にひとつの強い願いが芽生えた。
「自分の車がほしい」

その夢をかなえるために、ぼくはこの会社でのアルバイトだけでなく、船橋にある食品コンビナートの野菜倉庫でも働いた。
二つの仕事を掛け持ちしながら、少しずつ頭金を貯めていった。

でも、それだけではまだ足りなかった。
そこで父親に相談し、某信用金庫からお金を借りてもらった。

そして、大学2年の春。
ぼくはついに、新車のブルーバードを手に入れた。

その年のブルーバードは、フルモデルチェンジを果たし、角ばったデザインから丸みを帯びたスタイルへと生まれ変わった。
SSSハードトップは大人気で、街中でよく見かける車だった。

けれど、ぼくが選んだのは一番下のグレード。
それでも、新車が手に入ったことの喜びは何にも代えがたかった。
オートマ車だと7万円も高くなるため、マニュアルを選び、パワーウィンドウもついていなかった。

それでも、夢が形になった瞬間だった。

そして、納車の日は偶然にもぼくの誕生日。
その奇跡のような日を、今でもはっきりと覚えている。

努力と決意が、ひとつの贈り物を運んできてくれたのだ。

〜借金と青春の三年間〜

車を手に入れた喜びの裏には、厳しい現実もあった。
借金の返済は、月々のアルバイト代から払っていった。

当時20歳のぼくにとって、自動車保険はとても高額だった。
忘れもしない。初年度の任意保険料は、なんと年間22万円もしたのだ。

友達と遊びに行くことも多かったから、いつもお金はギリギリだった。
財布の中に入っているのは、せいぜい三千円ほど。

それでも、そんな切羽詰まった日々も、楽しい思い出で満ちていた。

信金から借りたお金は、大学2年生の春から3年間かけて、コツコツと返済していった。

そして大学を卒業するとき、ついに車の借金を払い終えた。
その瞬間、名実ともにこのブルーバードは、ぼくのものになったのだ。

自分の努力で勝ち取った誇りを胸に、ぼくはあの日のことを今でも鮮明に思い出す。

無知だったぼくと、森の言葉 〜バブルの中の決断〜

大学4年の春。
世はまさにバブルの絶頂期だった。

「就職案内」は段ボール箱に3つも4つも届き、まわりの誰もが忙しく動き回っていた。

けれど、世間知らずだったぼくは、そんなことは気にもせず、「どこの会社に入っても同じだろう」なんて軽く考えていた。

就職活動もほとんどせず、ただ先代の森に誘われるまま、この会社に就職してしまったのだ。

20歳の頃、現場が終わると森と帰り道が一緒で、よく車で途中まで送ってもらった。

その車中で、森がぽつりと聞いた。
「仲川、将来は今学んでいることを活かした仕事に就きたいとか考えているのか?」

無邪気に、何も考えていなかったぼくは、「今のところは何も考えていません」と正直に答えた。

すると森は、意外な言葉を放った。
「社長やってみないか?」

ぼくは「はぁ?」という気持ちだった。
まだアルバイトで、20歳で、将来のことも何も考えていない自分に対して、「この人、何言ってるんだろう」と心の中でつぶやいた。

だからこそ、「そんな器じゃないですよ」と、わかったような口をきいてしまったことを覚えている。

でも森は静かに言った。
「器というものは苦労して乗り越えるうちにできてくるものだ」

その言葉は、ぼくの胸に小さな火を灯した。
「そういうもんなのかな?」と、ぼんやりと思った。

そして結局、ぼくは入社した。

 

あの頃の無知だった自分と、森の言葉が、今のぼくを作っているのだと思う。

休みのない日々と、厳しくも優しい師匠たち

初の仕事は、現場のすべてを経験することだった。
とはいえ、単純に現場の一員として働くだけだった。

平日は警備員として24時間勤務。
終わると明け番となり、体を休める時間が少しだけあった。
そして土日はこれまで通り、清掃の仕事に明け暮れた。

休みは月にたった二日。
お盆も正月も関係なく、勤務日には必ず現場へ向かった。

今なら間違いなく問題になる過酷な労働環境。
だけど、あの頃のぼくにはそれが普通だった。

それでも、週に二度の明け番のおかげで、残業も早出も多くなく、わずかながら自由な時間を確保できた。

「本当によくやっていたな」と、今振り返る。

そんな日々が二年も続いた頃、次のステップが訪れた。

設備の仕事――
ボイラーと冷房設備の修行をすることになったのだ。

指導してくれたのは、大正生まれの戦争経験者。
30人もの部隊を率いたというその方は、話し方も接し方も穏やかで優しかった。

大声を張り上げたり、叱責したりすることは一切なかった。とても強い人だったのだろう。
でも、仕事に妥協は許さない。
ルールを守り、お客様には誠実に、時には「ダメなものはダメ」とはっきり伝えた。

厳しさの中に温かさがある、そんな師匠だった。

先代の森もそうだった。

厳しいけれど、そこには深い愛情があった。

そんな人たちに教わることができたぼくは、その経験を何よりの財産だと感じている。

突然の別れと、父の背中の記憶

あの日はまるで、晴天の霹靂だった。

夜勤明けで疲れ果てて帰宅すると、テーブルの上に母の書き置きが置かれていた。
「お父さんが仕事先で倒れて、病院に運ばれた」——その短い言葉が、胸に重くのしかかった。

やがて電話が鳴った。母の声は震え、「もう、だめらしい」

慌てて病院へ駆けつけると、父は意識を失い、呼吸を助ける機械と心電図のモニターに繋がれていた。

診断はクモ膜下出血。

レントゲンに映し出された脳は、血で覆われていた。医師の言葉が今も耳に残る。
「こうなると手術はできません。現代の医学でも、脳死の判定はまだしていません。あとは体力次第、明日か何ヶ月か後か、それはわかりません」

翌日、父の心臓は静かに止まった。

人の死とは、こんなにも突然訪れるものなのか――
「何もしてやれなかった」その無力感に、胸は張り裂けそうだった。

そんなとき、ふと幼い頃の記憶が蘇った。

父の実家の近くの海で、初めて見る大きな波が怖くて父の背中にしがみついたあの日。
父はそのまま海に入り、どんどん沖へ泳いでいった。
必死にしがみついた父の背中は、あの時、世界で一番大きく、頼もしく感じた。

父はいつだって、ぼくの支えだった。
そんな父が、こんなにもあっけなく、いなくなるなんて、想像もできなかった。

一家の柱が倒れた喪失感は計り知れず、心が落ち着くまでには1年、2年かかった。
三回忌を迎えた頃、ようやく気持ちに一区切りがついた。

父が亡くなった年は、なぜか身近な人の訃報が相次いだ。
「寅さん」こと渥美清さん、当社の設立からお世話になった得意先の会長。
そして翌年には、設備の仕事を教えてくれた、大正生まれの戦争経験者もこの世を去った。

悲しみは重なり、胸を締め付けた。
だが、その経験のすべてが、ぼくの背中を押している気がする。

 

父の背中のように、強く、優しく。

旧式設備と冷たい視線の中で

その日から、ぼくは一人で設備の管理を任されることになった。
けれどその設備は、最新のものとは程遠かった。冷房も暖房も、すべて手動で操作しなければならなかった。

冷暖房をつけるタイミングも、止めるタイミングも、総務部長の指示が絶対だった。
経費を厳しく管理する総務部長は、「できるだけ遅くつけ、できるだけ早く消す」
それがルールだった。

暑くても、寒くても、その指示には逆らえなかった。

社員たちの視線は、刺すように冷たかった。
「なぜ、もっと早くつけてくれないんだ?」
「こんなに寒いのに、どうして消すんだ?」

ぼくはただ、総務部長の言葉を守り、機械のスイッチを動かす。
心の中で震えながらも、誰にもそれを見せなかった。

警備の仕事をこなし、設備の仕事を覚えながらも、ぼくの根っこにあるのはやはり清掃の仕事だった。

汗をかき、手を動かし、黙々と現場を守る。
どんなに冷たい視線を受けても、自分の役割を果たすしかなかった。

それが、ぼくの現実だった。

眠れぬ夜と大きな現場

先代の知り合いの紹介で、ぼくは一つの新しい現場を任されることになった。
それは、アミューズメント施設を建設する会社との仕事だった。まずは、深夜のカラオケボックスの清掃から始まった。

閉店は午前2時。
開店は午前10時。
その8時間の間に、すべてを終わらせなければならない。

現場は自宅から1時間以上。
夜中の12時には家を出なければ間に合わない。

前日の仕事が終わり、午後9時には布団に入るが、「寝たかな」と思った瞬間には、もう目覚ましが鳴る。
まだ深く眠る間もなく、また起き上がる。

毎回「今日こそはきついな」と思いながらも、気がつけば車を走らせ、気がつけば現場に立っていた。

深夜2時、作業開始。
ホールや通路だけならまだしも、カラオケボックスの各部屋は手間がかかる。
重いソファ、重いテーブル。ひとつひとつ動かし、カーペットやタイルを洗浄していく。

狭い区画に分かれた場所を、ひたすら丁寧に、時間と戦いながら仕上げていく。
洗浄が終わり、ソファやテーブルを元に戻すころには、もう身体はくたくただった。

それでも開店に間に合った瞬間――
心の底から、ほっとする。

「間に合った。」

その一言が、どんなに重たかったか。
誰も知らない深夜の戦いだった。

この仕事をきっかけに、その建設会社が手掛ける新規施設の清掃も任されるようになった。
年に一度、新しい店舗が生まれるたび、ぼくたちは工事現場に足を踏み入れた。

まだ完成していない現場で、埃まみれのガラスを拭き、余分なコーキングを取り除き、磨き上げていく。
大きな現場もあった。
幅46メートル、長さ100メートル――想像を超える広さの新店舗もあった。

夏の暑い日、まだエアコンも設置されていないその巨大な空間で、シャッターも閉じられ、空気の流れもない中、ひたすら掃除機を動かし続ける。
汗は止まらず、息も荒くなり、ふらふらになりながらも手を止めなかった。

それでも、新しい店舗がきれいに仕上がり、お客様を迎える瞬間を見るたびに、疲れはすべて吹き飛んだ。

 

「自分たちの仕事は、ここに残っている。」
そう思えることが、何よりの誇りだった。

震災の日に継いだもの

2011年3月9日。
それは、すべてが動き出す二日前のことだった。

現場から次の作業先へ向かう途中、一本の電話が鳴った。
専務からだった。

「……森が、亡くなった。」

言葉が、耳に、心に、ゆっくりと沈んでいった。
ずっとそばで、ずっと導いてくれた先代。
あの背中を、もう二度と見ることはないのだと――実感が追いつくまで、しばらく時間が必要だった。

そして、その二日後。
3月11日。
先代・森のお通夜の日――あの震災が、起きた。

現場を一通り確認したあと、会場近くのコインパーキングに車を停めていた。
そのとき、突然、車が激しく揺れ始めた。

「大型トラックでも通ったのか?」
最初はそんなのんきなことを考えていた。

だが、目の前の電線が、まるで縄跳びのように大きく揺れ、信用金庫から人々が雪崩のように飛び出してきた。
やっと、「地震だ」と気づいた。

激しい揺れ。収まったかと思えば、すぐにまた次の揺れ。
人々は逃げ、また戻り、また逃げ……そんな光景を車内から呆然と眺めていた。

カーナビのテレビに映ったのは、「高さ8メートルの津波予報」の速報。
「そんなバカな。8メートルなんて、ありえないだろ。」
そう思っていた。

しかし、さらに高い津波警報が出た。
しばらくしてテレビが映し出したのは、黒い濁流が、まるで手で地面をなぎ払うように東北の町を飲み込んでいく映像だった。
画面を見ながら「これは本当なのか?」と、現実感がまるでなかった。

携帯電話はつながらない。
メールも1~2時間遅れで、ようやく届く。

会場の固定電話を借り、必死に各現場に連絡を取った。
お客様も、現場の仲間たちも、みんな無事だった。それだけが救いだった。

しかし、自宅に電話しても、母が出ない。
嫌な予感が胸をよぎる。

しばらくして、姉からメールが届いた。
「母はうちにいる。一緒に無事だよ。」
その一文を見て、ようやく息ができた。

お坊さんは、本来なら30〜40分で到着するはずだった。
だが大渋滞に巻き込まれ、5時間かけて、やっと会場に辿り着いてくれた。

予定より5時間遅れで、お通夜が始まった。
数キロ先に住む知人たちでさえ、何時間もかけて来てくれた。
帰りもまた、同じように長い時間を歩き、車で帰っていった。

非常時の中で、多くの人が来られなかった。
わたしも家には帰れない。
でも、あの人のお通夜だ。
森と、そのご親族と、一晩一緒に過ごすことにした。

翌日の告別式が終わり、道路の混雑も少し落ち着いていたので、各現場の確認に向かった。

棚が倒れ、壁に軽いヒビは入っていたが、ガラスが割れたところはなく、誰一人ケガ人もいなかった。
それは、本当に、幸運だった。

中には、交通機関が止まった中、40キロ以上の距離を歩いて帰宅した従業員もいた。

混乱の中で、それでも、会社は動き続けた。
ただ一つ、大きく違ったのは――
「社長」が、いなくなってしまったこと。

次は、誰が会社を率いるのか。
答えは、もう決まっていた。

森が、生前から口にしていた。
「次は、お前がやるんだ。」

震災とともに始まった混乱の中、わたしは社長に就任した。

あの日の揺れは、心の奥底に、今もまだ残っている。

あの日、何もかもが変わった。
だけど、わたしは受け取ったのだ――
森が遺したものを、すべて。

無知からの出発

社長になった。
けれど、正直なところ――わたしは「社長の仕事」が何なのか、まったく分かっていなかった。

先代はたまに言っていた。
「経営者ってのはな……」
「社長というものはな……」

でも、その背中を間近で見て、学んだわけではなかった。
現場で汗を流し、警備をし、設備を見て、清掃をして――
現場のことなら誰よりもわかっている。
お客様とも長年顔を合わせてきた。
けれど、現場がわかることと「経営」がわかることは、まったく別物だった。

頭のどこかでは、自分の無知に気づいていた。
「このままではダメだ」
でも、何をどうしたらいいのかもわからなかった。

それで本を読んだ。
経営セミナーにも行った。
けれど心にストンと落ちるものには、なかなか出会えなかった。

そんな時、いつものように日経新聞をめくっていると、一冊の本の広告が目に留まった。
確か「一日一つ実行するだけ」――そんなタイトルだったと思う。
あまり覚えていない。ただ、その時のわたしは「これならやれそうだ」と素直に感じた。

本を読み進めるうちに、その間に挟まれていた“無料講演”の案内を見つけた。
少しでも学べるなら――と、講演に足を運んだ。

講演は衝撃だった。
社長として、わたしの知らないことばかりが次々と語られた。
「自分は、こんなにも何も知らなかったのか……」
痛いほど思い知らされた。

そして、講師の社長が言った。

「社長の無知は、犯罪です。」

その言葉が、胸に深く刺さった。

経営を知らないままで会社を引き継いだことが、どれほど恐ろしいことだったのか。
わたしが知らないままでいることで、社員やお客様にどれほど迷惑をかけるのか。

「このままでは、本当に会社を潰してしまうかもしれない。」

その時、覚悟を決めた。
一から学ぼう。
ゼロからやり直そう。

まずは会社の“土台作り”から始めた。
高度な経営理論なんて必要なかった。
最初に着手したのは、ただ「整理整頓」――それだけだった。

たったそれだけ。
でも、たったそれだけが、実は簡単ではないこともすぐに気づいた。

道具の置き場、在庫の管理、掃除用具一つひとつの扱い。
「整理整頓なんて、どこの会社でもやっている」
そんな風に思っていたけれど、実際に徹底しようとすると、それはどこまでも深い世界だった。

やればやるほど、細かいところが見えてくる。
やればやるほど、まだまだ改善の余地があることに気づく。

整理整頓を通して、仕事の質が変わった。
社員たちの意識も、少しずつ変わっていった。

あの日、無知を叱責されたあの講演が、わたしのすべての始まりだった。

 

社長として、やっと、一歩を踏み出したのだ。

未来への改革・・・

制作中・・・

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